お米の統制と管理
明治時代以前
大化2年(646) 「改新の詔」 | 大化の改新において、国政改革の中核をなす新たな施政方針を示すものとして掲げられた法令。屯倉や田荘などの私有地並びに子代や部曲などの私有民の廃止、私地私民の売買の禁止など。 |
大宝元年(701) 「班田収授法」 | 課税対象であった田を戸籍、計帳に基づき、政府から受田資格を得た貴族や民へ班給し、死亡者の田は政府へ収公する、唐で行われていた均田制の影響の元に施行されたと考えられている法体系。 |
養老7年(723) 「三世一身の法」 | 灌漑施設を新設して墾田を行った場合開墾者から三世代、既設の灌漑施設を利用して墾田を行った場合は開墾者本人一代までの墾田所有を認めた格(律令の不備を改め補う勅令や官符)。 |
天平15年(743) 「墾田永年私財法」 | 三世一身の法を改め、国への申請、許可の後3年以内に開墾しない場合は、他の者へ開墾を許可する事を条件に新しく開墾した耕地の永年私財化を認める荘園発生の基礎となった勅(天皇の名による命令)。 |
天平神護元年(765) 「墾田私有の禁止」 | 加熱しすぎた墾田による富豪や大寺院などの私有耕地拡大に対して、称徳天皇の後見である太政大臣禅師に就いた道鏡が出した「寺院以外は新たに開墾してはならない」とする太政官符。 |
宝亀3年(772) 「墾田私有の許可」 | 称徳天皇の崩御後光仁天皇の即位により道鏡が失脚し、新たに出された「墾田私有を許可するが百姓は苦しませないように」と言う旨の太政官符。 |
寛永20年(1643) 「田畑勝手作禁止令」(作付禁止令) | 江戸幕府が米を作るべき田畑に於いて木綿や煙草、菜種などの商品作物の栽培を禁止する為に出した「作付禁止令」「田畑勝手作りの禁令」とも呼ばれる農民統制の為の法令。 |
法令寛永20年(1643) 「田畑永代売買禁止令」 | 寛永の大飢饉を契機に飢饉による百姓の没落を防ぐ目的で、江戸幕府から代官宛に出されたとされる「土民仕置条々」の3条(13条)を指す。農民所有の田畑の移動や集中を防止する為に田畑の売買(永代売)を禁止した法令。 |
享保20年(1735) 「田畑勝手作仕法」 | 江戸幕府から代官宛に出されたとされる「土民仕置条々」を事実上の見直し、年貢増徴を条件に商品作物の栽培を黙認する政策に移行したもの。 |
明治時代
明治5年(1782) |
明治政府が、江戸幕府の田畑勝手作禁止令を撤廃し、田畑における作物の自由作付を許可した措置。 |
明治5年(1782) |
明治政府が、江戸幕府の農民所有の田畑の移動や集中を防ぐ為に無年期売りを禁じた田畑永代売買禁止令を廃止する太政官布告。 |
明治34年〜明治35年 |
日本国内が凶作であったため、軍用米の台湾からの調達や大手政商の台湾米の買い占めによって、台湾米の対日移出が急増し、米価が下がる。 |
大正時代
大正3年(1914) |
大正9年3月の戦後恐慌の発生まで続いた第一次世界大戦の大戦景気で、重化学工業化は進展したものの農業では地主による土地集積が進み農村人口が都市部へ流出し、工業労働者の増加によりお米の消費は増加したが、第一次世界大戦の影響でお米の輸入量は減少し、後に米価の暴騰により富山県の漁村より始まった米騒動の発端となる。 |
大正7年(1918) |
大戦景気は都市部への人口流入と工業労働者の増加を齎し、養蚕など収入の増加があった農家は米食へと変化した。一方で、農村人口が都市部へ流出したため米の生産量は伸び悩み米の輸入量が減少した事も重なって米価が暴騰し一般市民の生活を苦しめた。4月には外米管理令が公布され、外国米の大量輸入が行われたが米価の引下げには至らなかった。 |
大正7年(1918) |
大収まらない米価の高騰が家計を圧迫し人々の生活を困窮させるなか、新聞が連日米価格の高騰を知らせて煽った事もあり社会不安は増大した。富山県中新川郡東水橋町(現富山市)で7月上旬から移出米商へ積出し停止の要求が始まり富山湾沿岸地帯に広がった。また、収まらない米価の暴騰に全国の主要都市で米騒動が発生する形となり、山口県や北九州の炭坑騒動へ飛び火した。米騒動の影響を受け寺内内閣は退陣し原内閣が誕生した。 |
大正11年(1922) |
米価の暴騰を受け原内閣が、急激な米価の変動を抑え国民生活の安定を図る為、需要と供給の調整を定め、米取引が間接統制に移行する。 |
昭和時代
昭和6年(1931) |
米の数量調整による市場価格の安定を目的として、政府の市場買入れ、売渡しによる最高最低価格制が導入される。また、輸出入の制限も行われるようになる。 |
昭和8年(1933) |
米穀法の強化を目的として、政府が米価基準(最高価格、最低価格)を公定し買入、売渡を行い、米穀輸出入の許可制が制定される。 |
昭和11年(1936) |
米穀統制法の補完として、内外地の根本的な過剰米対策を政府ではなく管理委員会と生産者などの自治管理で過剰米の統制を行う。 |
昭和14年(1939) |
米穀商を許可制となり、米穀取引所は廃止され代替として半官半民の日本米穀株式会社が設立される。 |
昭和17年(1942) |
戦時下に於ける食糧不足に、国民が平等な機会を持って主要食糧の獲得が出来るように、政府が食糧(主に米)を管理してその需給と価格との調停並びに配給の統制を行う。 |
昭和27年(1952) |
食糧管理法から雑穀が外され、麦類が間接統制へと移行し、米は消費者となる都市労働者の賃金を勘案して生産者米価を決定する生産者米価と消費者米価の二重価格制を採用。 |
昭和30年(1955) |
米が供出制度から外され、供出に代わって予約売渡制度(生産者が収穫前に政府に売渡予定数量を申し込む)が実施される。 |
昭和42年(1967) |
戦後の米の増産政策により、北海道や北東北での農業生産が拡大しお米の自給率が100%を突破し、過剰米が出始める。この年北海道は大豊作で北海道産米100万tを突破。 |
昭和44年(1969) |
過剰米による食糧管理特別会計の赤字の縮小などを目的として、一部の良質な米に限り政府を通さず生産者が政府の手を通さず政府指定の卸業者を通じて直接消費者へ自由な価格で販売できるようになる。 |
昭和47年(1972) |
物価統制令改正によりお米の物価統制令の適用が廃止され、消費者米価が自由化された標準価格米制度となる。政府売渡価格への銘柄間格差導入される。 |
昭和56年(1981) |
食糧管理法が全面改正により、自由米への規制が廃止され流通業者は許可制となり、緊急時の配給実施に備えた規定が盛り込まれる。米流通が統制から管理へと変化した為、通常時の配給制度自体が廃止され米穀配給通帳も廃止される。 |
平成時代
平成2年(1990) |
自主流通米について、産地や品種ごとの需給動向や品質評価を価格に的確に反映させる仕組みとして自主流通米価格形成機構が設立され、自主流通米の入札制度が開始される。銘柄米は自主流通米経路で取引され、低品質米は政府米流通経路に集まるようになる。 |
平成5年 |
平成の米騒動とも呼ばれ、記録的な冷夏により日本国内で栽培されていたお米に記録的な生育不良から生じ、食糧市場が混乱し世界の米市場にまで影響を及ぼす。 |
平成6年(1994) 「食糧法」 |
政府が管理する米は備蓄と計画流通米のみとなり、自由米や縁故米が計画外流通米として認めるられる。自主流通米の価格は自主流通米価格形成センターに於ける入札で決められ市場実勢が反映される。集荷及び販売業者は許可制から登録制に変更され新規参入が容易となる。農家の政府への米の売渡し義務が廃止され、事前に届け出れば自由に米を販売することが可能になる。 |
平成7年(1995) |
平成5年に起こった「1993年米騒」では、日本国内の米不足が深刻となり、価格が暴騰し、外国産米の緊急輸入などが起きて食糧管理制度の脆弱性に対する非難が増加した。 |
平成7年(1995) |
GATTウルグアイラウンド(関税及び貿易に関する一般協定)於いて、米の例外なき関税化を延期する代償として、他品目よりも厳しい量の輸入枠を受け入れ、ミニマムアクセス米として輸入開始。 |
平成16年(2004) |
農業受持者に限らず誰でも自由に米を販売したり流通させる事が出来るようになり、米穀の販売が登録制から届出制になる。一定額を支払えば米穀の輸入を自由に行う事が出来るようになる。 計画流通制度が廃止され、民間事業者による安定供給に向けた自主的な取り組みに対して支援を行う米穀安定供給確保支援機構が創設される。 |
『平成30年産水陸稲の収穫量』
(平成30年12月)(農林水産省統計部)
平成30年産うるち米(醸造用米、もち米を除く)の品種別作付割合上位20品種
(米穀安定供給確保支援機構)