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稲作の伝来

稲作の始まり

 

 世界3大穀物といわれる「小麦」、「米」、「とうもろこし」のうち、お米は日本人の主食であり大事なエネルギーのもとです。しかし、稲は日本古 最終氷期(およそ7万年前に始まって1万年前に終了した一番新しい氷期)が終わった頃から地球の温暖化が急激に広がり、落葉広葉樹林が広がり初め、人々は定住して山や川や海から食糧を得る生活が始まったとされ、その後、ヨーロッパや西アジアでは最終氷期の後の寒の戻りの時代に食糧を確保するため小麦など穀物の農耕が始まり、中国での陸稲もこの頃に始まったと考えられています。日本でも縄文文化が始まっていますが、日本では、稲の野生種が無なかったため稲作へとは進みませんでした。

 

 日本に稲をもたらしたとする中国の長江文明の稲作漁労民は、 約3000年前の寒冷期に中国北部から南下してきた騎馬民族(畑作牧畜民)により滅ぼされ、 逃れた一部の長江流域の稲作漁労民は雲南省や貴州省を経て日本へ稲作文化を伝えたと考えられています。稲作の起源は、中国の江西省や湖南省の遺跡で1万年以上前の稲籾が多数発見されている事から、この頃には焼畑による陸稲栽培が行われていたと考えられています。また、揚子江の下流域の遺跡からは約6000年前の水田遺構が発見されており、この頃には揚子江の中流域から下流域で水稲栽培が行われていたと考えられています。

 

関連報道

 

 2005年1月22日、中国国営通信の新華社が、長江下流域の浙江省浦江にある新石器時代の上山遺跡から、約1万年前の世界最古の栽培稲の籾殻が見つかったと伝えています。これまで最古の栽培稲は長江中流域の遺跡などで見つかった8000年前のものとされており、稲作の起源は更に約2000年遡る事になります。考古学研究所などが、上山遺跡で約1万年前の土器と共に大量に出土した稲の籾殻を調査した結果、野生種より長さが短く幅は逆に太い栽培稲の特徴が確認出来たそうです。

 

 中国では1990年代に長江中流域の湖南省にある玉蟾岩遺跡や江西省の仙人洞で1万年以前とされる籾殻も見つかっているが、栽培種か野生種か明確でない事などから稲作の起源とはされておらず、専門家は今回の調査結果について、長江下流域(揚子江)が稲作の発祥地の一つである事を裏付けたとの見方を示した。稲作の起源を巡っては近年、長江流域での発掘成果が注目され、長江下流域の草鞋山遺跡では約6000年前の水田遺構も発掘されています。

稲作の伝来

稲は何処で生まれた

 稲は、亜熱帯気候である中国南部の雲南省の一部からラオス、タイ、ビルマ周辺に広がる山岳地帯で生まれたとされ、そこから北の方に広がったのが「ジャポニカ」という寒さに強い種類の温帯での栽培にむく稲で、南に下ってインドや東南アジアに広がったのが「インディカ」という種類で、湿度と気温が高い所や雨季と乾季がある気候での栽培にむいています。

 

 また、「インディカ」と同じく南に広がったのが「ジャバニカ」という種類の熱帯の高地で作られるようになった稲で、寒さに強く乾燥した土地でも育ちます。やがて稲は、マダガスカルやアフリカの地中海沿岸、イタリアや、南米にまで広がりました。日本では縄文時代後期に、中国の揚子江あたりから「ジャポニカ」が北九州に伝わったとされ、凡そ2000年前の弥生時代中期には、本州の一番北でも稲が作られていたようです。北海道は一番遅く、明治時代になってやっと作られるようになりました。

 

稲の伝来ルート

 

1 長江下流域(揚子江)から東シナ海を経て九州北部へ伝来したとする「対馬暖流ルート(揚子江・東シナ海ルート)」
2 華南地方から台湾、南西諸島を経て九州南部に伝来したとする「黒潮ルート(南方ルート)」
3 華北地方から陸伝いに朝鮮半島を縦断し、対馬海峡を経て九州北部に伝来したとする「朝鮮半島ルート(北方ルート)」

 

 という3つの学説があります。このうち、中国大陸から直接伝来したという学説がいちばん有力です。

 

 日本では、岡山県の縄文時代後期の遺跡から稲のプラントオパール(植物の細胞組織に充填する非結晶含水珪酸体の総称)が発見された事により、この頃には陸稲栽培が行われていたと考えられています。また、水稲栽培は、福岡平野で弥生時代前期初頭の水田遺構が発見されている事から、それ以前と考えられています。

日本への伝来ルート

朝鮮半島経由説

 

 佐原真は弥生稲作が日本に伝わった道について、南方説、直接説、間接説、北方説があったがしかし現在では、朝鮮半島南部から北部九州に到来したという解釈は、日本の全ての弥生研究者・韓国考古学研究者に共有のものであるとしており、佐藤洋一郎らが最近唱えた解釈に対しては、安思敏らの石包丁直接渡来説を含めて少数意見であるとしている。

 

 趙法鐘は、弥生早期の稲作は松菊里文化に由来し、水稲農耕、灌漑農耕技術、農耕道具、米の粒形、作物組成および文化要素全般において朝鮮半島南部から伝来したとしており、日本の稲作は朝鮮半島から伝来したという見解は韓日両国に共通した見解であると書いている。

 

 池橋宏は、長江流域に起源がある水稲稲作は、紀元前5,6世紀には呉・越を支え、北上し、朝鮮半島から日本へと達したとしており、20世紀中ごろから南島経由説、長江下流域から九州方面への直接渡来説、朝鮮半島経由説の3ルートの説が存在していたが、21世紀になり考古学上の膨大な成果が積み重ねと朝鮮半島の考古学的進歩により、日本への稲作渡来民が朝鮮半島南部から来た事はほとんど議論の余地がないほど明らかになっているとまとめている。

 

 しかし、これについて広瀬和雄は、中国大陸から戦乱に巻き込まれた人達が渡来したというような説は水田稲作が紀元前8世紀には渡来したのであればもう成立しないとしている。藤尾慎一郎は、これまでの前4〜5世紀頃伝来説が新年代説(前10世紀頃)になったとしても、朝鮮半島から水田稲作が来た事には変わりないとしている。

 

 宝賀寿男は、従来説では、中国の戦国時代の混乱によって大陸や朝鮮半島から日本に渡ってきた人達が水稲農耕をもたらしたとされてきた。これは稲作開始時期の見方に対応するものでもある。中国戦国時代の混乱は分かるが、殷の滅亡が稲作の担い手にどのように影響したというのだろうかと述べ、稲作開始時期の繰り上げと炭素年代測定や年輪年代測定の数値と検証方法に疑問を呈している。即ち殷は鳥・敬天信仰などの習俗からもともと東夷系の種族(天孫族と同祖)と考えられるため、別民族で長江文明の担い手たる百越系(海神族の祖)に起源を持つ稲作には関係ないと考えられる。

 

 山崎純男は、朝鮮半島から最初に水田稲作を伴って渡来したのは支石墓を伴った全羅南道の小さな集団であり、遅れて支石墓を持たない慶尚道の人が組織的に来てかなり大規模な工事を伴っているとしている。佐藤洋一郎によると、風張遺跡(八戸)から発見された2800年前の米粒は食料ではなく貢物として遠くから贈られてきた。風張遺跡(八戸)から発見された2800年前の米粒は熱帯ジャポニカ(陸稲)であり、温帯ジャポニカ(水稲)は、弥生時代頃に水田耕作技術を持った人々が朝鮮半島から日本列島に持ってきたと言う。分子人類学者の崎谷満も、ハプログループO1b2 (Y染色体)に属す人々が、長江下流域から朝鮮半島を経由して日本に水稲をもたらしたとしていた。

 

江南説(対馬暖流ルート)

 

 農学者の安藤広太郎によって提唱された中国の長江下流域から直接に稲作が日本に伝播されたとする説。考古学の観点からは、八幡一郎が「稲作と弥生文化」(1982年)で、呉楚七国の乱の避難民が、江南から対馬海流に沿って北九州に渡来したことにより伝播した可能性を述べており、対馬暖流ルートとも呼ばれる。本説は下記に述べる生化学分野からのアプローチからも支持されている。

 

 2002年に農学者の佐藤洋一郎が著書「稲の日本史」で、中国・朝鮮・日本の水稲(温帯ジャポニカ)のSSR(Simple Sequence Repeat)マーカー領域を用いた分析調査でSSR領域に存在するRM1-aからhの8種類のDNA多型を調査し、中国にはRM1-a?hの8種類があり、RM1-bが多く、RM1-aがそれに続くこと。朝鮮半島はRM1-bを除いた7種類が存在し、RM1-aがもっとも多い事。日本にはRM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類が存在し、RM1-bが最も多いことを確認。RM1-aは東北も含めた全域で、RM1-bは西日本が中心であることから、日本の水稲は朝鮮半島を経由せずに中国から直接に伝播したRM1-bが主品種であり、江南ルートがあることを報告し、日本育種学会の追試で再現が確認された。

 

 更に、2008年には農業生物資源研究所が稲の粒幅を決める遺伝子「qSW5」を用いてジャポニカ品種「日本晴」とインディカ品種「カサラス」の遺伝子情報の解析を行い、温帯ジャポニカが東南アジアから中国を経由して日本に伝播したことを確認し、論文としてネイチャー ジェネティクスに発表している。

 

南方経由説(黒潮ルート)

 

 柳田國男の最後の著書「海上の道」で提唱した中国の長江下流域からの南西諸島を経由して稲作が日本に伝播されたとする説である。石田英一郎、可児弘明、安田喜憲、梅原猛などの民俗学者に支持され、佐々木高明が提唱した照葉樹林文化論も柳田の南方経由説の強い影響を受けている。

 

 北里大学の太田博樹准教授(人類集団遺伝学・分子進化学)は、下戸の遺伝子と称されるALDH2(2型アルデヒド脱水素酵素)遺伝子多型の分析から、稲作の技術を持った人々が中国南部から沖縄を経由して日本に到達した可能性を指摘している。

 

 考古学の観点からは、沖縄で古代の稲作を示す遺構が出土していないため関心が低いが、生化学の観点からは、渡部忠世や佐藤洋一郎が陸稲(熱帯ジャポニカ)の伝播ルートとして柳田の仮説を支持している。

 

出典:Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E4%BD%9C#%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%B8%E3%81%AE%E4%BC%9D%E6%9D%A5%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88)

日本列島への稲作伝播ルートについての議論

日本列島への稲作伝播ルートについては現在も議論が分かれているが、私が目にした数ある資料の中にはこういう意見もある。

 

 @松菊里遺跡が日本の農耕文化の源流を成す。
 A水田稲作の渡来経路は、長江下流―松菊里遺跡―北九州である。
 B朝鮮半島南部に定着したあと稲作民の移動と共に区州に伝えられた。

 

 この意見とこれまでの考察を擦り合わせると、土器と文様文化と稲作は、それぞれ別ルートでやってきた事になる。だが、これが現実論としてはあり得ない事は誰の目にも明らかである。江西省や湖南省で1万年以上前に遡る稲籾が続々と発見されており、古いものは1万2000年前に遡る。これらは焼畑による陸稲栽培と考えられている。また水稲に関しては、長江下流の浙江省寧波の河姆渡(かぼと)村で、炭素14年代測定法で約7000〜6500年前の水田耕作遺物が発見された。最古の水田遺構は、馬家浜文化中期にあたる約6000年前のものが江蘇省呉県の草鞋山遺跡で見つかっている。 これらの事から、水稲の水田耕作は長江中下流域に起源し、日本へもこの地方から伝播したとする説が現在では有力となっている。

 

 岡山県彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から稲のプラントオパールが見つかって、縄文中期には稲作(陸稲)をしていたとする学説が出た。それに加え、遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからず、畑作米の確認しか取れない事、また、朝鮮半島で確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり、日本の水稲よりも古い時代へは遡れない事、極東アジアに於けるジャポニカ種の稲の遺伝分析に於いて、朝鮮半島を含む中国東北部からジャポニカ種の遺伝子が確認されない事などの複数の証拠から、水稲は大陸(中国南部以南)から直接伝来したとする学説が出された。

 

 更には、朝鮮半島の稲作が日本から伝わった可能性を指摘する佐藤洋一郎氏の説も出されている。現在、炭素14年代測定法による日本最古の水田稲作遺跡は2800年から3000年前とされている。また、稲作は九州から朝鮮半島へ伝わったとする気象学・地理学的視点からの意見がある。40年に渡って農産物貿易に携わりカナダや南米で契約栽培をした経験を持ち、世界の農産物の豊凶に関心を持ってきた人が、農産物の性質と気象の関係が合理的に説明できない説として、長江流域―遼東半島―朝鮮半島―日本という稲作伝播説に対する反論を述べている。

 

 暖流が沿岸を流れる地域は、北であっても気候は暖かく湿潤である。他方、寒流が沿岸を流れる地域は、緯度的に亜熱帯であっても乾燥・砂漠化する。暖流と寒流が陸地に与える影響の実例としては、英国は高緯度で北海道よりも北にあるが、沿岸をメキシコ暖流から派生した北大西洋暖流が流れているから、冬でも比較的温暖で夏は暑い。逆に、南米のチリやペルー沿岸は南極からのフンボルト寒流に洗われている。従って水分の蒸発が少なく、内陸部は降雨量が少なく砂漠地帯になる。カリフォルニアも、沿岸を北極からの寒流が流れている事から砂漠化する。日本の太平洋側では黒潮暖流と、日本海側では対馬暖流が沿岸を北上している。

 

 従って、日本が長江より北に位置していても温暖・湿潤な気候になる。ちなみに、日本と同じ梅雨期があるのは中国では長江中下流域、その河口から南の寧波にかけてで、ここはいわゆる米作地帯である。以上の論拠から、長江流域(温暖、湿潤)―遼東半島(乾燥、寒冷地)―朝鮮半島(北部は乾燥寒冷地)を経由して日本列島へという稲作の伝播はあり得ない。 (2008年10月にWEB上に投稿された原稿を要約/kohshien21c)

 

 

 ※温暖・湿潤な環境を好む稲が大陸を北上して、時間をかけて乾燥・寒冷地帯を経由しつつ、朝鮮半島を南下して九州へという、農産物の性質と気象の関係に反する伝播図式は成り立たない。

 

出典:倭人が来た道 第10章 海流が育んだ稲作伝播ルート
    (https://blog.goo.ne.jp/isaq2011/e/493935a38266309a42cda264df9e125f)